銀鏡神楽について

銀鏡神楽は九州山地・米良山系に古くから伝わる狩猟民族と、中世の豪族・菊池氏とともにこの地に入山した懐良(かねなが)親王にちなむ伝承に鵜戸神宮から伝わる修験者系の神楽と日向神話などが混交した貴重な神楽と言われています。

宮崎県には350箇所余りの神楽が現在もあると言われますが、なかでも高千穂神楽・椎葉神楽・米良神楽が夜神楽として有名です。

高千穂神楽と椎葉神楽はそれぞれまとめて国の重要無形文化財となっていますが、米良神楽では『銀鏡神楽』だけが単独で国の重要無形文化財の指定をされています。

現在では地元ではなく他所で神楽を舞う例もありますが、銀鏡神楽だけは「ショーではなく神に奉納するもの」と言う点にこだわり、銀鏡からはほとんど神楽を持ち出さないという点も注目されます。

毎年12月12日から神楽が始まります。12日は神社に集まって注連縄(しめなわ)を編んだり御幣を切ったり準備にかかります。
13日は「星の舞」という修験の色濃い一番だけが神楽殿で舞われます。
翌14日は手力男(たじからお)神社や六社稲荷神社などからご神体などが運び込まれ、夜を徹して残りの三十二番の神楽が奉納されます。

祭壇には猪の頭がまるごと供えられており奉納者の名前が書かれています。
狩猟を中心とした珍しい神楽です。

銀鏡神楽は古形を残し、様々な要素が混交する優れた神楽であると言われていますが、伝承者の数も減ってきています。そこで「願祝子(がんほうり)」という制度を活用しています。願祝子(がんほうり)」とは志願して神楽の舞人=祝子となるという意味で、かつて村を去った人も地区に縁故のない人も願い出て、厳しい修行を積めば祝子になれるという仕組みです。

(参考文献)
● 別冊太陽 日本のこころ115「日本列島の闇夜を揺るがすお神楽」(平凡社 2001年10月刊)
● 「西都風土記」 弥勒祐徳(鉱脈社刊)

銀鏡に伝わる日向神話

昔から伝えられている「古事記」「日本書記」の中に語られる神話には、高天原神話・日向神話・出雲神話があります。
高天原神話は天上での物語ですが、日向神話と出雲神話は地上の話です。
特に日向神話は具体的な記述が多いとされています。高天原神話にまつわる言い伝えや地域も宮崎県には数多くあります。

「記・紀」によれば南九州からの侵入軍が大和を占領して大王になり、後に天皇家になったというのですが、初代天皇とされる神武天皇はカムヤマトイワレヒコと呼ばれ、彼に至るまでの4代に渡る年代記が日向神話となっています。

初代天皇となったカムヤマトイワヒコノミコトから遡ること4代、天つ国から降臨したニニギノミコトがいます。
葦原の中つ国に降り立ったニニギノミコトが現在の西都市に立ち寄った際にコノハナサクヤヒメを見初め父オオヤマツミに結婚を申し入れたと言われています。
オオヤマツミは姉イワナガヒメと妹コノハナサクヤヒメを献上品と共に差し出しました。
ところがイワナガヒメのあまりの醜さにニニギノミコトは姉を送り返してしまいました。

このことを嘆いたイワナガヒメが、わが姿を映す鏡を遠くへ放り投げたところ銀鏡山中に落ちたと言われています。このことが鏡をご神体とする銀鏡神社の由来です。

(参考資料)
● 「天皇家の”ふるさと”日向を行く」 梅原 猛(新潮文庫)
● 「日本書紀」 全現代語訳 宇治谷 猛(講談社学術文庫)

歴史と地勢

宮崎の奥深く、太平洋にそそぐ一ツ瀬川の源流となる銀鏡川のほとり、九州山脈の山懐にいかれるように神楽の里・柚子の里こと東米良(銀鏡)があります。青い山が連なり「山紫水明」という形容そのままの山里です。
清流「銀鏡川」せは山女・鮎・ウグイなどが泳ぎ、棚田で作られる米や、深い山霧にはぐくまれた自家製のお茶もおいしく出来上がります。

菊池氏の支配

南北朝の時代、肥後の菊池氏は北朝の追討を逃れ、南朝の流れを汲む「一子」を奉じて米良山中に入りました。菊池氏は川沿い・谷沿いに石垣をめぐらし田畑を成し山を切り開いて焼畑を作りヒエ・アワ・ソバ等を主食とする山村文化を開いたのです。
『能』の原点とも言われる『銀鏡神楽』もこの頃から発達し伝承されて来ました。『銀鏡神楽』は現在、国の重要無形文化財に指定されています。

時は流れて…

明治維新の時『廃藩置県』において領主菊池公は、すべての領地を領民に分け与えました。山を活かし柿・栗などの産地を成すことを勧め、まつりごとを怠らぬ事を領民に託して米良の地を後にされました。米良の山林が他
に類がないほど私有地が多いのはその為です。
その頃の米良の特産品と言えば、『木炭(炭焼き)』・焼畑の後を利用したミツマタ・カジ(和紙の原料となるコウゾ)くらいでした。

現在では九州屈指の生産を誇っている『ゆず』ですが、元々古くから山に自生し実っていたものを、自家用として料理にまた化粧水などに利用していました。
その自生している『ゆずの木』の中から最良のものを選び出し、穂木をとり接木をして増やしていったのが昭和48年春のことです。
以来、本格的に栽培に踏み切ってから30有余年、試行錯誤を繰り返し病害虫・災害・天候不順などの紆余曲折を経て、成分・香気ともに高品質の『ゆず』を産出することができるようになりました。

<余談>尾八重トメ女(おはえトメじょ)の話

絶世の美女と言われた尾八重トメ女は、年頃になり銀鏡の浜砂家に行儀見習いとして奉公しました。
或る日鹿狩りに来た殿様が浜砂家で休憩した際トメ女を見て一目ぼれしてしまい側室に迎えられたと言います。トメ女を失った村の若者が作った唄があります。
彼女は秀でた肌の美しい女性であったと伝えられています。
尾八重トメ女は『ゆず』の種の化粧水を使い、ゆず湯につかって美しい肌を保っていたのではないか。と、遠い美女に思いを馳せる言い伝えです。